【インターンレポート】『隅田側に立つ』を通して考えた、私にとっての「公共性と公益性」加藤響
NPO法人トッピングイーストでは、インターン生に「現在自分が考える”公共性”と”公益性”」をテーマにレポートを書いていただきました。今回は2020年11月よりインターンに参加してくれている加藤響さんのレポートです。加藤さんは特に『隅田川怒涛』ではリサーチや広報サポートを、『隅田側に立つ』では広報を担当しました。
公共性と公益性。これは、間もなく学生生活を終え、社会人として働き始める私たち世代が考えるべき重要なテーマである。私自身、卒業後の進路を考えるにあたって、自分がやっていて楽しいことと他者の役に立つことを結び付けること、あるいは折り合いをつけていくことはとても難しいと日々感じる。「誰かのためにこうしたい」ということを自分の口から言うと、どうしてもなんだか嘘くさいような気がして、むずがゆくなってしまう。一方で、今回展示&トークイベント『隅田側に立つ』に関わってくださった方々の中には、すみだという地域のために尽力されている方が多くいらっしゃった。そこで私は、会期中その情熱は一体どこからくるのだろうかという疑問の答えを探しながら現場に立っていた。
トークイベント最終日、「コミットメント×隅田川」を聴講していて、はっとした場面があった。ゲストの方の、「水は世界中を循環していて、隅田川はその大きな一つの循環のうちの目に見える部分である。そして、人間の身体すらも水の通り道である。」というお話だ。この言葉によって、社会に対峙する形で自分があるのではなく、社会の一部として自分が包摂されていて、実は常に他者との繋がりの中にいるのだと思えるようになった。社会のために行動するということは、慈善の心で他者に恩恵を施すことではなく、公共という自分を含む大きなサークルをより良くしようとすることなのではないかと思い至った。だとすれば、真の公共性には、自分もその対象に含まれているという切実性があるはずだ。今回の『隅田側に立つ』という企画名には、自分から離れて他者の視点に立ってみるという意味が込められているが、公共性の出発点としては、第一に自分の中の思いや引っかかりが必要であり、自分の心の声に耳を澄ますことが大切なのではないか。また、真に他者の視点に立って、他者の気持ちを理解することは不可能である。他者の視点に立とうとするということは、実際には「他者はこのように物を見ているだろう」というあくまで自分の推測行為でしかない。このような自分の中での変化を通じて、『隅田側に立つ』ということは、自分に対峙する他者の視点に立つことではなく、自分も他者も含む大きな循環に思いを馳せることだという自分なりの結論に至った。
良い場所には良い循環があると思う。空気が上手く循環していなければ空間を清潔に保つことができないし、お金の循環が滞れば、経済も滞る。それは人も同じだ。それぞれが完全に個人の中で完結してしまえば、社会全体は良くならない。自分が他者のために何かをし、それが巡り巡って自分に返ってくる、そのような良い循環のあるコミュニティでは、そこに遠心力が働き、結果として生み出せるものが2倍にも3倍にもなるのである。公共性とは、そのような循環を推進する力の一端となることではないか。社会の構成員それぞれが循環の中に身を置き、「公」と「共」にあることによって、「公益」へとつながるのではないだろうか。
展示&トークイベント『隅田側に立つ』における公益性とは、訪れた人が展示を見て地元の歴史に思いを馳せ、またそこに集まった人と時間を共にし、様々なものと自身との「繋がり」を感じてもらうことだったと考えている。このコロナ禍で、職場や学校などのそれまで所属していたコミュニティ内でのコミュニケーションが変化してしまった人も、今回の企画で改めてより身近なものを見つめ直し、その緩やかで大きな循環を感じてもらえていたら嬉しい。
↑展示最終日は、インターン生ひとりひとりとトッピングイースト事務局メンバーで対話し、活動を通して得た気づきや変化を共有しました。