【インターンレポート】『隅田側に立つ』を通して考えた、私にとっての「公共性と公益性」荒木奈桜
NPO法人トッピングイーストでは、インターン生に「現在自分が考える”公共性”と”公益性”」をテーマにレポートを書いていただきました。今回は2020年11月よりインターンに参加してくれている荒木奈桜さんのレポートです。荒木さんは特に『隅田川怒涛』ではリサーチや広報サポートを、『隅田側に立つ』ではインターン紹介パネルと広報を担当しました。
それぞれが「たくさんのじぶん」のために
「公共」という言葉を聞いた時、何を連想するだろうか。社会、一般、みんな、あるいは図書館やトイレなどかもしれない。私はこの企画をするまで公共のものが一体どのように動いているのか、誰が運用しているのか、誰のためにあるのか全く意識したことがなかった。公共のものに関する規制や手続きについての意味も「そういうものなのだろうな」と特に深く考えずにいた。しかし、それがないと公共性は破綻してしまうことに今回の企画を経て気がついた。公共物を公共たる状態にすることは放っておいて成立することはない。そこに関わる多くの人々の努力があって初めて活用されるのである。それはどういうことなのか、なぜ私がそう感じるまでに至ったのかを論じる。
トークイベントの「隅田川怒涛振り返り回」でトークゲストの墨田区職員さんにいただいた北十間川周辺の使い方パンフレットにある公共空間について「それは”みんな”のもの。”みんな”はたくさんの”じぶん“が集まったものだから、公共空間は”じぶん”のものでもある」という記述が印象に残った。「みんなはたくさんの”じぶん“」という言葉を見て目から鱗だった。
「公共」や「公益」という言葉を聞いた時に思い浮かべるのはやはり先にあげた、社会や一般という言葉だったが今回の企画を経てそれは少し変わった。それよりももっと自分に近いもの、つまり一人一人が「たくさんのじぶん」のために作り上げるものが「公共」であり、結果として「公益」になるのではないだろうか。『隅田側に立つ』では私たちのリサーチの成果を見てもらうだけでなく、各々の中にある隅田川や地域のことについて考え、それを他者と共有することを目的の一つに掲げていた。展示を振り返ると、実際に来場者の方やトークゲストの方とお話ししてみて「たくさんのじぶん」というものが理解できた。何か共通の場や物を通して自分と自分以外のみんなをつなげる、それこそが公共性となる。したがってパンフレットに記載された内容も常に周りへの配慮が第一とされていた。例外なく誰もが自分ごととして扱えるようにするためには今までもこれからもそうであるべきであり、公共物を維持・改善する努力は必要不可欠なのである。
そして公共性は様々な立場の人々がいて初めて成立する。現在様々な規制緩和がなされていてもなお手続きや条件が難しかったり複雑であるが、公共物を利用する立場と整備する立場、ルールを作る立場、それぞれの立場が近い距離であることは公共の新たな可能性と公益を生む上で非常に重要である。それも本企画を実現して改めて感じたことだった。
では『隅田側に立つ』における公益性はどのように生まれたのだろうか。隅田川を共通項としてこの企画には多くの方が来てくれた。それに加えこの場をリアルで開催できたことにも意味があると思う。ここでは一方的に私たちのリサーチを発表するのではなく、相互交流の場にしたことによって公益が生まれたと思う。私たちも学ぶことの方が多く、主催者と来場者という枠を取り払った交流ができた。私は「能」をリサーチのテーマにしていて「能」に興味を持って来場してくれた方もいた。このように切り口は本当に様々だが隅田川が持つそんな一面をきっかけに、多角的な観点から隅田川や地域について口にできること自体が地域への思いにつながる。そしてその思いは地域を盛り上げるための素材になりうる。
私は『隅田側に立つ』を終え、自らの定義した公共性を理解した今やっと隅田側に立てたのだ。
↑荒木さんは、梅若泰志さん(シテ方能楽師)をトークゲストにお迎えし、「能×隅田川」をテーマにトークイベントを実施しました。
↑来場者に展示の説明をする荒木さん。