2018年2月 BLOOMING EAST 勉強会「OUR MUSIC」 第2回 「リスナーになってみる」レポート
BLOOMING EAST「勉強会」とは
私たちは様々なかたちで日々音楽に触れています。そんな普段何気なく耳にする音や音楽が、ふとした場所で聴こえてきたときに風が抜けるような心地よさを感じたことはありませんか?
「音楽」には、そんなふうに空間そのものの温度や、その場に居合わせた人々の体温がほんのりと上がってしまうような力があるような気がします。
BLOOMING EAST勉強会「OUR MUSIC」では、そんな「音楽」や「音」がもってる本来の響きと「公共」との関係について、丁寧に考えを巡らせていきます。そもそも、音と音楽の違いってなんだろうとか、耳に残る音楽や聞き流してしまう音の差異や区別はどうやって生まれるのかとか、そんな根っこのことを考える勉強会です。(詳しい開催日程などは関連イベントをご覧ください。)
第2回 「リスナーになってみる」
●イントロダクション
本日の目標は、メンバーそれぞれの個人的な音楽史と、音楽の聴き方に関する一般的な音楽史を年表にし、そこから音楽や音の「聴き方」について考えていくことです。
●個人的音楽史
まず、それぞれが①人生で一番好きな曲、②最近よく聴く曲を書き出していき、発表された年にしたがって時系列順に壁に貼り付けていきます。
●HearとListenの違いについて
ジョン・ケージ《4分33秒》に関する論文をもとに、HearとListenの違いについて各メンバーが紙に書き出します。この時点ではまだ発表せず、この会の最後に、それがどのように変わったか/変わらなかったかを含めて発表がおこなわれます。
●音楽史と個人的音楽史の変遷
次に、個人的音楽史と一般的音楽史を突き合わせ、時系列順にたどっていきます。一般的音楽史の軸は、「聴き方」に焦点を当てた以下の三つです。
①メディア:レコード市販(1948)→カセット(1964)→CD(1982)→ダウンロード→サブスクリプション(2008)に至る経緯
②BGM:未来派「騒音芸術」(1913)→サティ「家具の音楽」(1920)→BGMの普及/イージーリスニング/エレベーターミュージック→ブライアン・イーノ「空港の音楽」(1978)に至る経緯
③映画音楽:坂本龍一《ラスト・エンペラー》(1987)など
一番好きな曲、最近よく聴く曲については、その発表年は1741年から2018年まであり、1990年代~2010年代に特に集中しているようでした。ジャンルは、クラシック音楽からバンド系の曲、歌謡曲、ヒップホップ、映画音楽、ミュージカルの挿入歌など、多岐にわたりました。実際に聴きながら、その音楽にまつわるエピソードをメンバーが語っていきます。その曲との出会い方は、友人から勧められて、たまたまかかっているのを聴いて、映画を観て、Youtubeやサブスクリプションでたまたま聴いて、などさまざまでしたが、出会った時期とメディアの変遷はやはり密接に関係しているようでした。その曲をあげた理由は、人生が変わったり音楽の聴き方がかわったきっかけだから、という大きなものもあれば、なんとなく聴き心地がいいから、というささやかなものまで。その聴き方も、朝に気分を上げるために聴く、作業中に聞き流す、良い音響でじっくりと聴く、などさまざまでした。
●さまざまな聴き方
ここでは、聴くという行為について、研究者や音楽家がどのような分類や概念化をおこなっているかを確認しました。渡辺裕さんの『聴衆の誕生』よると、音楽作品を統一体として解釈する「集中的聴取」から変化して、現代において音そのものの心地よさの表層を味わう「軽やかな聴取」が現れ始めているといいます。その他、ピエール・シェフェールによる音を何とも結び付けずに聴く「還元的聴取」という概念、ティム・インゴルドによる音「を」聴くことと音の「中で」聴くことの違いなどについても併せて確認しました。次に、「聴く」という行為が音楽の「場」にとってどのような影響を及ぼすか、という観点から、デレク・ベイリーによる即興演奏と観客の密接な関係についての記述や、クリストファー・スモールによる音楽を対象ではなく行為として捉える「ミュージッキング」という概念に聴くという行為も含まれていることなども確認しました。
●仮説検証
最後に、はじめに書き出したHearとListenの違いを参照しつつ、本日の勉強会を受けて思ったことをそれぞれが発表しました。音や音楽との出会い方は時代とその環境によって目まぐるしく変化しますが、その中でこそ今日のように音楽と個人の結びつきについて共有できる機会や、日常の中で無意識に音や音楽と触れることで間口を広げる機会を何らかの形で持つことの重要性が感じられたようでした。またそれと関連して、HearとListenの境界は曖昧で、どちらがいいというものでもなく、私たちはそれらの間を行き来しながら音楽や音と共に生きているということも改めて確認されました。